傘はこれ以上進化することはない

江戸時代からほとんど形状の変わっていないものの一つに傘がある。これほど変わらずにみんなが使い続けているものは他にないのではないだろうか。

最近では、雨を避けるためのドローン、なんてものも開発されているようだけど実際に使えるようになるのは5年ほど先だろう。

本も江戸時代から形状自体は変わっていないが、電子書籍が一般的に広まってきたし、そもそも中身が変わりすぎている。5年以内には紙の書籍はほとんどなくなっているだろう(と5年前くらいから思っている)。

 

世の中が便利になって、なんでも最新のものにアップデートすることが素晴らしい、という考えが広まっているようだけど、個人的には気に入って使っていたシステムが使えなくなって不便だなと思うことの方が圧倒的に多い。何から何まで新しくなってしまうのは少し寂しいなとおもう。

 

「最新版」と聞くと気になって飛びついてしまう人々が多いらしいが、大抵最新版のものは不安定だし、すぐに改訂版が出るのでもったいない。やっと安定し始めたな、と思う頃にはもう新しいものが出ているという現状が改善されればいいのにな、ホトトギス

 

 

お金をもらうこととお金をもらわないこと

お金をもらって仕事をする人間を信用したほうがよい。これは個人的な感想であるが。

他者に何かを依頼する場合、金を取ってくれるプロにお願いする方が、善意だけでやってくれる人よりも信用できる。

 

ボランティアというものは「奉仕」の精神が確立していればそんなに問題ではない。

しかし、奉仕というものには責任が伴わない。途中でやっぱりできませんと言われても誰も保障してはくれないのだ。

 

友人や知り合いに頼むということもできるだろうが、それは相手に「貸し」を作ることになる。こんなことを言っていると冷たい人間と思われるのかもしれないが。貸しを作るということは、一種の支配を受けることと同義である。このような面倒は苦手なので、僕はあまり引き受けないことにしている。

 

ただ、総じて見てみると世の中には友人ならば無料で奉仕してくれて当然と考える人が多いようだ。特に年齢があがるにつれてその傾向が見られる。年齢があがると金と関連しない付き合いを好むようになるらしい(だからおばあちゃんはすぐに何かをくれるのだ)。

 

僕は、今まで何度か友人に「仕事」を頼んだことがあるが、全て代金を支払ってきた。友人だから、値段が安くなるのではなく、腕を見込んで頼んでいるからだ。

仕事とはそういうものである。

 

金銭的な格差はそんなに大きいものではない

 

格差社会」という言葉はもう耳に馴染みのある言葉となりつつある。主に収入の違いについて論じられていることが多い。

しかし、実際の金額と人間が感じる価値とは綺麗に比例してはいない。たとえば、30000円の料理が3000円の料理と比べて10倍美味しく感じることはない。ある人にとっては10000円でもある人にとっては0円の価値のものも世の中にはたくさん存在するだろう。

 

つまり、金額が大きいものほどコストパフォーマンスが悪いのだ。金額にあった見返りがなくなるように世の中はできている。

一方で金額の低いものは、性能にあった金額となっている。例えば100円のイヤフォンと1000円のイヤフォンでは、実際に10倍の違いが感じられることだろう。だから、人々は少しでも努力して多く稼ごうとする。

しかしそれが実現したところで、大抵の人間はある程度のところで満足してしまうものだ。

 

そういったものとは違い、知識とか人生の楽しみ方といったものはそれを持っている者と持たざる者の間の差が激しい。これはお金を持っているかどうかとは無関係であることが非常に多い。貧乏であっても楽しく生きていたり、知識を豊富に持っている人間は多数いる。こういったものを「教養」と呼ぶのだろう。

 

「教養」のない人間は自分にはお金がないからいろいろなことができないのだと諦めているが、金とは無関係の話だ。楽しい生き方を知るすべを探求していくことが「教養」なのである。

 

個性とは、生み出すものではない

人間というものは、一人一人違う(そんなことは当たり前だ)。どんなに似ている双子でも実際には全くの別人なのだ。自分と同じ人間が他にはいないということは、人はみんなそれぞれオリジナルであるということ。

だから自分で考えて、それに基づいて行動していればそれだけで「個性的」なのだ。外から取り入れて、他人の影響を受けているから個性がなくなる。個性を隠すためにそれをしているのなら、正しい判断だろう。

 

生まれたばかりの赤ん坊はみんな顔も姿形もほとんど一緒だが、あれが一番個性を発しているのだ。我々は子供の頃から、みんなと同じように、外から取り入れた情報を元に、個性の消し方を学習させられている。

子どもには個性的な人間に育って欲しいと願っている親も、実際はみんなと違うところはないか、気が気でないというのが本音だろう。せいぜい服や身に付けるものを色とりどりにするのが精一杯だ。

 

個性的であることの価値をみんな見いだせていないのだろう。日本においては、没個性であるほうが集団の中で生きやすいと考えるのもうなずける。個性的な人間が没個性のふりをするのは簡単だ。ちょっと大人しくしていれば良いのだから。しかし、没個性の人間が個性的なふりをするのは難しい。個性的な人間の真似をするしかなくなってしまうだろう。

 

オリジナルとは、自分で考えること。自分で考えていればいつかは個性的な人間否れるだろう。オリジナルを探しに世界を旅しても自分は見つからない。

 

会社員になりたくない

「将来やりたいことがないけれど、普通の会社員にはなりたくない」

「会社で歯車のように働くのは嫌だ」

「独立してクリエイティブなことで食べてゆきたい」

そう思っている大学生、高校生は世の中にたくさんいるだろう。

 

就職活動をせずに新卒で何かクリエイティブなことがやっていきたい

現在の日本はそんな甘いことが通用する世の中ではない。

 

そもそも、「クリエイティブなこと」は学生のうちからでもできることなのだ。創造するということは子どもが一番得意とする分野であり、大人になればなるほど自由に創造することは難しい。

本当にクリエイティブなことがやりたかったら今すぐに始めれば良いのだ。

 

そんなことを言えば、「何から手をつけたらいいのかわからない」という人がいるだろう。そんな問題はこの一言で解決する。「なんでもいいから手をつけなさい」

これは本当になんでもいいからはじめてみなさいという意味ではない。何から手をつけたらわからないで立ち往生するくらいならば、とりあえず目の前にあるものに手をつける方がよっぽど有益だという話である。

目の前にあるものに手をつけていれば必ず自分の行き先が見えてくる。目の前のことを片付けずに先のことばかり見ているから、広い世界に目が向きすぎて「何から手をつけたら」いいのかわからなくなってしまう。分からなかったらとにかく目の前に手を伸ばしてみよう。

 

そう。まずは部屋の片付けから。